所属と証明 100日ブログカウントダウンマラソン46日目
不審にならないよう腐心する
高校生の頃から考えていることだが、所属とは中々に強固な枠組みだと思う。枠組みでもあるし、額縁のようなものでもある。絵画は額縁も含めての芸術作品だ、といったようなことを何処かで聞いた気がするが、忘れてしまった。
生徒証を見せれば学割定期が買え、カラオケも映画も学生料金になる。成る程所属が明らかであるというのは便利なものだ。
一年浪人していた時期があったが、その時は物凄く宙に浮いた感じだった。「学生」でも無ければ、「会社員」でもない。あえて名付けるとすれば「無職」とか「予備校生」とかになるのだろうか。謎の喪失感・不安感を抱えつつも、近所のカレー屋は何故か学生料金であった。一応「予備校カード」(恥ずかしさ爆発のカードだ、モラトリアムの免罪符と言える気もしなくもないが)を見せはしたが。
大学に入り、学生証を手に入れると、更なる利便性を感じるようになった。大学の図書館は入り放題、指定の博物館・美術館の常設展示は無料、特別展示は割引料金という高待遇。自分の学部以外の建物に入っても(一部制限はあるが)、不審人物とは思われない。だって身分が証明できるから。所属を暗唱できるから。
普通自動車免許を取得すると、ドヤ顔で試験を受けられるようになった。今までの如く物々しいパスポートを使わなくてもいいのだ(パスポートも、特に日本のパスポートは立派で強固な身分証明で所属証明だが)。酒類も購入できる。身分も証明できる。所属は敢えて言うなら日本だと。
このように、学校なり免許なりパスポートなりは自分の証明の一端を担うものである。
だが、学校などと免許、パスポートなどとは少し証明の種類が異なるのではないかとも思う。
学校は所属を明らかにし、その所属であることを証明する。あくまで学校が先に来て個人は二の次三の次になる。
免許やパスポートは個人につく。個人の身分を証明する。その資格を持つのは、その国籍を持つのは自分だと、叫ぶかの如く。(パスポートは少しこの分類の是非を問われるかもしれない)
その考えから行くと、今後仙崎の身に起こりうるであろう職業選択は、所属にも、自分の証明にも大きな影響を及ぼすのではないかと思っている。
会社に勤めると、所属はその会社にあるということになるのであろう。だが、学校の場合と同じく組織がまず一番に来て、自分は後回しとなる。これは組織人としては当然のことであるのかもしれないが、その枠組みからほっぽり出されたら、何の意味もなさない枠組みであるのではないかと思う。転職の際には重視されるのかもしれないが、それもわからない。
これも聞いた話だが、海外で自己紹介をしてくれと頼まれた際に、会社名だとか役職だとかを答えるのはナンセンスなんだそうだ。まだ働いてすらいない仙崎がとやかく言うのは烏滸がましいことだが、所属は「所属していることの証明」にはなり得ても、自分自身の証明には塵一つ分にもならない、ということになる。
所属が齎す安心感も考え物だ。いざという時には外れてしまう額縁を持つ絵画のようなものだから。「大学生」という身分、所属も一定期間が過ぎれば外れる。
どんな枠組み、額縁で縁取られる絵画でありたいのか、はある程度は自己の選択の自由だが、枠組みに依存するようなことにはなりたくないものである。それは枠組みが立派だから評価される、購入される絵画のようなものだ。
46日目。