絶望という感覚 100日ブログカウントダウン60日目
我輩は絶望である。味はまだない。
全ての災厄を出し尽くした後の箱の中に最後に残っていたものは。
希望でした。
有名な「パンドラの箱」の結末部分である。
絶望とは、まあ多くの人が味わいたくはないものであり、仙崎も出来れば味わわずにいたいものの一つである。
文字通り「望みが絶たれる」ことであり、そのような状態が齎す精神状態であったりもする。
世の中には多くの絶望形態が存在する。それらは千差万別、千変万化、十人十色だが異口同音にその存在を唱える。
今のところ仙崎はまだ絶望を知らない。
なんだかんだと大学には3回か4回くらい落ちているが(世間的には一浪ということになっている)、絶望を感じたことはない。「あ、これが絶望か」みたいなことを思ったことはない。
友人だと思っていた人間に裏切られたこともあるが、絶望というには程遠い。
ただ小説や漫画などでは「決定的な絶望」のようなものを見たことがある。
勿論見たことがあるのと味わったことがあるのとでは大違いだが、現実とフィクションの間には絶望に関する絶対的な違いがある。
フィクションでは救いが提示されている場合が多々あるということである。
現実ではそういつもいつも救いがあるわけではない。
出来れば、「それでも這い上がるのが人間である」みたいなフレーズをつけたいが、そうそう這い上がる気力が湧くというものでもない。絶望している人間にそう言って無理をさせたくもない。
また、当人にとっては絶望でも、他の人間にとっては、絶望でもなんでもないという時もある。
つくづく絶望という感覚はわかりにくいものだ。それでいて万人が経験する可能性がある。
わかりにくいからこそ、人は味わった時に混乱し、困惑し、恐慌をきたすのかもしれない。
わかりにくいからこそ、人は忌避するのかもしれない。
わかりにくい上に、救いがあるとは限らない。だが最後には如何に幽かか分からないほどの希望がある(かもしれない)と思うことが絶望の感覚なのだろうか。
絶望を音楽にすればどうなる。
絶望を絵に描けばどうなる。
絶望を写真に収めればどうなる。
絶望を料理すればどうなる。
最後には希望を感じられる何かが出来上がるのだろう。
よし、一度音楽や料理にしてみるか。
60日目。
わかりにくい長文失礼いたしました。