13面体の賽子

最後に決めるのは自分だ。断じてサイコロではない。

半分 100日ブログカウントダウンマラソン50日目

なんだかんだで

50日連続投稿。

サボりがちで飽き性、面倒くさがりの仙崎にとっては異例中の異例だ。

昨年末試験に落ちた時や、大学のゼミ発表が立て込んで来た時、色々と予定が怒涛の祭りを起こした時には投稿をやめる、もしくはブログ自体を閉じようかと思ったこともあったが、なんだかんだと続いてきている。

高校時代のとある国語教師の話

仙崎が高校生の頃、まあブログだとかFacebookとかmixiとかが一般に認知、或いは流行し始めた頃、国語の授業である先生が世間話の一環でブログについて言っていたことがある。

ブログを日記として書いている人がいるが、人に見せる日記はその時点で日記たり得ないのではないか、といったようなことである。

日々起こることを自分なりに客観視してみたり、出来事に対する自分の感情、激情を惜しげも無く恥ずかしげもなくぶつけてみたり、批判や解説を加えてみたり思いの丈を赤裸々に綴ってみたりするのが日記であって、人に見られることを意識した途端、書きたかった感情、観点、痛烈な批判、明確な解説は霧消してしまう。「人に見られる」が故に「カッコつけ」たり、「可愛く見せ」たり、「インテリぶっ」たりしてしまう。(当時の記憶を掘り返しつつ書いているので曖昧で、なおかつ要旨をまとめたうえで再構成しています)

それは一理ある意見だろう。だがしかし。

私はブログと日記は別物だと思っている。

人に見られる時点でそれは「日記」ではなく「ブログ」なのだ。創作も入るし格好もつけたくなるし可愛くまとめたくもなる。

日記だと思って綴ったことはない。「人に見られることを前提とした雑記、備忘録、メモ帳、記録」である。強いて言うならば「日誌」だろう。日誌も人が見るのを前提としているものが多い。それ故に痛烈な批判も身を焦がす激情もデータの裏に覆い隠すか、別の所で書くかしている。

逆に人に見られるからこそブログではいい記事ができるのかもしれない。私がその域に達したとは微塵も思わないが。

人が見ようが見まいが続けられる限りは続けて行きたいものである。


半分、50日目。