Twitterを止めることにした。:100日ブログカウントダウンマラソン59日目
理由は様々なのだが
何だか色々と面倒になり、Twitterを止めることにした。
仙崎がTwitterというサービスに関わり始めたのは、確か2014年だったと思う。
多分周囲の若者に比べれば格段にそのサービスへの参入は遅く、また変わった使い方をしていたと思われる。
呟く内容は専ら
- 日々の出来事及びそれに対する意見
- 過去の出来事の振り返り
- 勉強時間の記録
- 保存したこれから読む論文のリンク
- 自作料理のレシピのような何か
くらいで、RTする内容は
- 便利そうな情報へのリンクが貼られた物
- 買いたい商品のリンクの貼られた物
- 役立ちそうな情報
- 料理レシピ
などなどで、いいねする内容は
- 自分が参照したい情報
- 料理レシピ
- 欲しい商品
- 勉強の役に立つ情報
etc.であった。
そして、それらの情報を以下のサービスを利用してライフログ的にまとめていた。
他にもハッシュタグを使用してやるべきことを纏めたりと、殆どがライフログ目的での利用であった。
途切れる直線、記録しなくなった記憶の先に
しかし主にiPhoneの容量をアプリが圧迫することが問題で、他にもTwitterの情報を追うのが面倒で、そしてそれにも拘らず自分がTwitterを暇があれば見てしまうという悪習慣をどうにかするため、Twitterを退会することにした。
一応一つアカウントは残してあるのだが(ほぼ情報収集・ハンドメイド・文具用)、アプリ自体は消している上に、メールで何らかの動きがあった際に通知が来るように設定しているため、友人からの連絡があった際には対応ができるようにはなっている。自分ではもう呟くことは殆ど無いだろう。わざわざパソコンを開いてまで140文字何か言おうとは思わない。
そうなると、途端に私のライフログ的な何かが途切れることになる。今まで量産されていた記憶の記録はなくなることになる。
だが、それの何が問題だろうか。
そもそもTwitterに投稿するライフログは、真のライフログとなり得ていたのだろうか。「誰かに見せるため」のライフログと成り果てていやしなかったか。ライフログならぬライフストーリーとなってはいなかったか。
ライフログを取りたいならばもっと別のサービスもあるだろう。デジタルに限らず、アナログに紙とペンでもいいはずだ。
確かに手に入る情報は少なくなった、お世話になっていた生物Botやら数学Bot、名言Botとも関わる機会が減ってしまった。
だが、それと同時にあまり乗り気にならないような情報に直面する回数も減ったため、痛み分けみたいな感じになっていると思われる。
今後私は承認欲求と自己顕示欲のためにまたTwitterを再開するのだろうか。それとももうそういった事柄には拘らないのだろうか。自分でも自分の動向を注意深く見守っていきたい。
59日目。