13面体の賽子

最後に決めるのは自分だ。サイコロではない。

進路に関するあれやこれや 100日ブログカウントダウンマラソン48日目

進路シリーズ第二弾

勝手にシリーズ化してしまった。後悔はしていない。昨日と同じく、記事に書かれていることを実践される場合などにおかれましては、自己判断でお願い致します。その結果生じた不利益につきましては、仙崎は責任を負えませんので悪しからずご了承ください。

それでは、仙崎の進路選択及び英語に限らず進路を考える上での自論を展開していきたいと思います。

仙崎の選択

仙崎は、自分の好きな学問を大学で学びたいと、それが叶わないならせめてお金を稼ぐことが可能になりそうな学びをしたいと考えて進路を選択した。

しかし、その結果大学には不合格になる、浪人はする、家から離れた大学に片道2時間以上かけて通う…といった「苦難」が待ち受けていた。

大した苦難ではなかったが、現在の大学に入学してから3か月ほどは、毎日泣きながら家に帰っていた。

それならば最初から理系ではなく、文系にして、英語の配点が高い所を選んでいた方が楽だったのではないかと、或いは理系でも別の大学を受験していた方がよかったのではないかと多くの人に言われたが、仙崎としてはこの選択と、苦難に概ね満足している。

酸っぱい葡萄なのかもしれないが、もしも自分が望んでいた大学に現役で入学していたら、損失がバカ高くなっていただろうし、今よりももっと「世間知らず」の人間になっていただろうし、鼻持ちならないクソ野郎、になっていただろう。推測でしかないが。

人生は100m走なのかトライアスロンなのかリレーなのかマラソンなのか競歩なのか

多くの人にとって、人生は短距離走ではなく、長距離走である、と仙崎は思っている。その時々にできることを頭を振り絞って考え、あらゆる条件を加味して選択肢を吟味し手札を揃え、最善を全力で尽くしていくことしかできない。

その「最善の選択」を自分で下した結果、後悔や無念が待ち受けていることは多々ある。泥を吐くことも、砂を噛むことも、しばしばである。そういった自分の血みどろの決断を鼻で笑われることなど日常茶飯事である。

だが、その後悔なり無念が、時間と共に結構薄れるのもまた事実であると思われる。その瞬間において最善であると自分で判断して自分で決断を下した結果であれば、意外とすんなり受け入れられるようになってくるものである。中には中々消えず、たまに夢になって出てくることもあるし、長雨の降る季節、外の雨の音を聞きながら思い出すこともあるが。

とはいえ、その瞬間において自分で考えて下した決断でなかった場合、後々まで尾を引くことになる。「あのときやっぱりこうしておけばよかった、どうして安易な決断をしてしまったのだろうか」と、棺桶の中に入るまで、数十年、人によっては一世紀先まで考え続けることになる可能性が無きにしも非ずである。

自分の人生を生きるのは他ならぬ自分であると思う

重要なのは、様々な条件を加味したうえで、「自分で」決断を下すことである。自分で、というのがまた人によっては厄介である。点数や偏差値や合格確率、自分の信頼する人物による助言は決断を下す際の「材料」になるかもしれないが、それをその決断を下したことの「理由」にするのは如何なものかと思っている。

 その人生を生きるのは自分でしかなく、親や親友、恋人が生きるわけではないのだから。

勿論、「信頼のおける〇〇さんの助言に従おうと自分で決断した」ならば最後には自分で決断しているので、「あのとき自分は〇〇さんの助言に従おうと自分で決断したじゃないか」と、もしも納得のいかない道に進んだとしても少しは折り合いがつくはずである。

人間自分で決めたことならば思い通りや予想通り、計画通りに物事が運ばなくても案外納得はするものである。結果が良くなければ当然後悔もするだろうが。とはいえ、どの道を選んでも結果がどうなるかは選択した時点ではわからないものである、結果が出た時点で後悔する確率などというものはどれも一緒であると思われる。それならば自分で決めた方が精神衛生上宜しいんじゃないかと思わなくもない。少なくとも仙崎はそう思う人間である。

 

自分の人生を生きるのは自分である、というのは決断を下す上だけでなく、価値観や信条などの問題にも関係してくる。

親や友人、教師とは、「自分」は異なるのである。中には自分以外の人と価値観や信条を共有している人もいるかもしれないけれども。親や友人と好みは似通っては来るのかもしれないが、究極的に同じ人間ではないので、どこかで異なる部分が出てくるはずである。そうなったときにどうするか。友人がAを選択したときに自分はBを良いと思うのか、それともAを同じように良いと思うのか、それは自分の価値観に依ると思われる。

 

仙崎の場合はその点は「自分には自分の価値観がある」と考えるし、他者も自分とは異なる価値観を持っていると考えてきた。そして、価値観が異なるにも拘らず価値観や信条を押し付け、剰えそれに従うよう要求してきた人間に対しては厳しい態度をとってきた。昨日の記事における高校一年生の時の一件である。*1実は意外と親はそんなことはしてこなかったので、それは仙崎にとっては幸せなことであると思っている。*2

人によっては親などの信頼のおける人に全て決めてもらいたい、自分よりも知恵ある賢者に全てゆだねたい、と考える人もいるだろう。それもまたその人の生き方であるし、価値観や信条である。その場合でも仙崎としては、それらにただ従うのではなく、最後には「自分で決める」というプロセスを経てほしいと思う。そのプロセスを経ようと経まいとで結果が仮令変わらないとしても。

つまるところ

仙崎としていえることは次の三点である

  1. 決断は自分で下した方が後々の後悔は少ない
  2. 自分の価値観や信条は他者と異なるものであることを踏まえてどうするかを考えてほしい、勿論他者も自分とは異なる価値観を持っていることを忘れずに
  3. 自分の人生を生きるのは自分である

よく言われている、月並みな言葉かもしれないが、進路や選択に関しては仙崎はこう考える、ということだけに記事を割いた48日目。

 

*1:このような対処法をとるのは自分の個人的な問題に関する場合であり、例えば議論が必要な事柄や、チームで解決すべき事柄においては、価値観の相違が生じた場合には討議を重ねていくべきであると思っている。自分の価値観や信条にそこまで深くかかわっては来ない事柄においては話し合いをしたり妥協をしたり新しい方法を考えたりすることは重要であると思っている。これも仙崎の価値観である。人によってはそうは考えない人もいるのかもしれない

*2:それが幸せかどうかも人による