13面体の賽子

最後に決めるのは自分だ。断じてサイコロではない。

ラーニングコモンズなる場所について思うこと

行きつけの楽しい図書館の話

普段はキャンパス内にある図書館に通っているが、たまに別のキャンパスの図書館に行ってみることにしている。歩きで大体30~50分くらいなので、ちょっとした運動がてら見に行くことにしている。勿論、勉強もするが。
この図書館の魅力は、取り揃えている本のジャンル(理工系の図書が多い。あと戦略とかデザイン系の本も)にもあるが、何といっても静穏な空間が確保されている事である。カフェテリアも近くにあるので、食料調達にも困らない。土日は人がそんなに居る訳でもないので広々とした空間に一人、ということも無いわけではない。「此処から先はサイレントスペースです」といったような掲示がなされ、文字通り静寂極まりない勉学者の楽園が広がっていた―――――昨年までは。
 
何と、その静穏空間は工事に入ったらしい。新たにラーニングコモンズというスペースを設けるための。

本当にラーニングしてるかい?

ラーニングコモンズという場所については知っている。学生や教職員が複数でディスカッションをしたり、プレゼンをしたりするための場所だ。
そのための設備も整っており、グループ学習向けの場所であると言えよう。
 
だが、しかし。
私は疑問に思うことが度々あるのである。
 
本当にラーニングしているのか、と。*1
 
たまにラーニングコモンズで明らかにラーニングしていない人を見かける。ラーニングを含んだトーキングではなく、単なるチャッティングとなっている所も見かける。
 
人と人との対話の中から新たな考えが生まれることはよくある。3人寄れば何とやら、というやつである。図書館がそういった形の学びを提供することも悪い事ではない。ただ、あまりにもそういった場所が増えてしまうと、「孤高の学び」を実践する場所が、人が、減ってしまう恐れがあるのではないか。
 
対話の中から新たな考えを創出しようと思うならば、独りでじっくり考える、或いは学ぶ、ということも大事である。
そういった場が減ってしまうことは喧騒から離れ一人でじっくり勉強したい人にとっては中々に困ることなのではなかろうか。
 
勿論図書館の案内には、一人で学習する人向けのスペースも設けるとあったが、はっきりと壁などで区切られていないのであれば、集中したい人にとっては有難くない救済措置である。
 
ラーニングコモンズが無い方が良いとまでは思わないが、そこまでして対話を重視した学びの場(しかも、それが目論見通りに使われる可能性があるとは必ずしも言えない場)を提供しなければならないのかとも思わなくもない。
 

無理矢理図書館トレンドに乗らなくても良いんじゃないか?

最近、新聞やニュースなどでも「大学の図書館すげえ」といった記事を見かける。様々な設備を整え、色々な学びを実現できる場所と化しつつある。

最高学府として申し分ない学びの場所の提供だ。

だが、無理に静穏な空間を無くしてまでして「図書館変革トレンド」に乗らなくてもいいのではないかと仙崎は思う。

多数の対話を中心とした学びと同じく、個人の集中した、深く内容を掘り下げるような学びも重要であるはずである。

 

取り敢えず、今まで使っていた静穏空間が工事終了後無くなる予感がしたので、新たな「静穏空間」を確保しに明日も図書館内をうろつこうと思う。

 

*1:この言い回しは、文法的には正しくないかもしれない。learn"ing"と「している」は、意味が重複しているからである